私が道院長になったのは、師匠が道院長の座を降りられたので、やむを得ずその後をやることになったというのが正直なところである。しかし、当時のことを後悔しているわけではない。それどころか、いつの間にか深入りしてしまったことに深い縁を感じている。
私が少林寺拳法のことを知ったのは大学の時である。構内で法衣姿の拳士が少林寺拳法部の勧誘に来ていた。その時、私の後ろにいた女子学生が「高校でやっていました。」と言ったのである。女性もやるのかと思ったのが最初の出会いである。
その後、大学での入部機会は逸し、結局、卒業を待って入門することになり、半世紀が経とうとしている。縁とは不思議なものである。
長く指導を続けていると、人それぞれ持ち味があるとつくづく思わされる。自分が指導していることの何が、その人のためになっているのかは時間が経過してみないとわからない。それは同じ人でも年齢によって異なる。小学生時と大学生時とでは、同じような言葉がけでも響き方が違う。
ゆえに、「人を見て法を説け」という仏陀の待機説法が肝であると思われる。機に応じて人に応じて説法をということであるが、これは指導者にとっては永遠の課題である。
指導者を続けながら、技を含めた待機説法に磨きをかけるのが指導者の修行ではないかと思っている。
質と量。qualitytとquantity。宇宙の実相がそうであるように、質と量のバランスが大切である。技でも切れのある技と数をかけた練習とはバランス的に成り立っている。
ヘーゲルの弁証法にあるように、質量転化の法則である。何度も何度も数をかけることによって、いつの間にか技が上達している。もちろん、効果的な練習法も大切であるが、基本的に数をかけた練習をすることが、技の向上につながることを知るべきである。
ゆえに、私の道院では数をかけることと永続して行うことを大切にしている。
眼を上げると、2つの山が左右に見える、自然豊かな環境に囲まれた道院である。開祖がそうであったように、厳しくも温かい雰囲気を心がけている。
拳士数は多くはないが、一人ひとりの個性が見える道院である。旧津市外の閑静な地にある道院なので、本当にやる気のある人には、じっくり取り組める良さがある。
道院長自身がそうであったように、やる気が一番のポイントなので、やる気が鼓舞されるような修練を心がけている。
「よどんだ水は腐る」という言葉があるように、道院に行くといつも何かが変わっているというような、生き生きとした修練を目指している。
私は大学生ですが、いつも道院は楽しみにしています。
その理由の1つは、道院長や兄弟子の方々の技が本当にすばらしく、それを体感できるからです。
これは当たり前かもしれませんが、少林寺拳法の技は、目で見る何十倍も、実際に技を極められた時の方が、そのすごさを感じられます。
もう1つは、練習が楽しく、それでいて上達もできるからです。相対で受けを練習したり、打棒を使うものや、中には手作りの練習用具もあります。
最後に、少林寺拳法は、、体だけではなく、心の行でもあります。
毎週ゆっくり座禅を組めて、「もっとしっかりしなくては」と思える場所があるのはありがたいことです。