法話
Shorinji Kempo

允可状授与式

本日、初段位の允可状授与式を行いました。

いつも言っているけど、いいか、黒帯(有段者)なんて社会に出れば何の意味もないからな。
「俺は四段だ、五段だ、すごいんだ、偉いんだ!」
アホか?

黒帯(有段者)取ったら道院を辞めるって言うのもいるけどな、黒帯(有段者)になってからこそ初めて自分自身の修行が始まるんだぞ。
黒帯(有段者)だからこそ、自分と向き合い、自分の人としての質を高めるということに努めなければならない。

「さすが黒帯(有段者)」
と言われるように、技術、知識、そして何より人格を磨かなくてならないんだよ。允可状授与式

面白おかしく生きよう

質問 先生がよく言う「面白おかしく生きる」コツってなんですか?

喜劇王って言われるチャールズ・チャップリンの言葉に「人生はクローズショットで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」ってのがあるんだよ。
生きていれば辛いこと、苦しいことがいっぱいある。でもねそれを一歩引いて遠目で眺めて「くだらないw」って笑えるといいよね。

私だって辛いことがいっぱいある。そのことだけに集中すると、そりゃ苦しいよね。
それを「こんなことがあってさ(笑)」って友達に笑い話として話すんだよ、そうすると友達も「お前バカだなぁ(笑)」って笑ってくれる。その笑っている友達を見て(あぁ、やっぱり悩むほどのことがないくだらない事なんだな)って自分で思えるようになるんだよ。

辛いこと、苦しいことを一緒に笑い飛ばしてくれる友達をひとりでも持つこと。
これが「人生を面白おかしく生きる」コツ。
(道院長誕生日会より)道院長誕生日会

開祖忌法要

今日は開祖忌法要を執り行いました。

(道院長法話)
私たちは血こそ繋がっていないが、道の上での開祖宗道臣先生の子であり孫である。
全ては開祖の想いから始まっている。
開祖はただの武道の一派として少林寺拳法を始めたのではない。
人づくりの行として少林寺拳法を始めたのだ。

もしこの中で「私は大会で上位に行きたい」「乱取りで強くなりたい」なんて思っている人がいるなら他所へ行った方がいい。
私はそんなのは教えられない。

一緒になって自分の人の質を上げるということを行なっていき、それを社会に還元して行く。
社会に活かすことができないのであれば意味がないから。

開祖忌

少林寺拳法の拳士が守るべく約束

少林寺拳法の拳士が守るべく約束ってあるよね。
みんな全部言える?

「却下省己(履き物を揃える)、合掌礼(挨拶)、作務(掃除)、正しい服装、正しい言葉使い、正しい態度」

これね、何もここ(道院)だけのことじゃないんだよ。
これはね、社会に出てから大事な事なんだ。
これができない大人はダメな大人なんだ。

例えば、さっきT君が出欠簿を先生に片手で渡していて注意されたよな?
目上の人には丁寧に両手で渡しなさいって。

「えーっ、でも学校じゃぁそんなの教えてくれないよ~」

そりゃそうだ、こんなのは学校じゃぁ教えてくれない。
だから、ここ(道院)で覚えて行くんだ。

ここ(四日市富田道院)はどれだけ間違えてもいい場所だ。
間違えて、間違えて、それで覚えて大人になって行きなさい。

修練風景

「怒り」の感情ってズルくない?

アメリカのアカデミー賞の舞台で俳優が司会を殴った事件があったね。
司会に自分の奥さんを茶化されたからって。
あれ、みんなはどう思う?
 
喜怒哀楽って人の感情を表す言葉がある。
これのね、「怒」、怒りって感情はね先生(私)はおかしいと思うんだ。
例えば「カッとなって暴力を振るってしまいました」ってニュースでよく聞くよね?
でもさ、「カッとなって」反社会勢力の人に殴りかかった人って聞かないよね。
腹が立ったからって、銃を構えた人に素手でかかって行く人いるか?
おかしいよな?怒りで我を忘れるなら相手構わず向かって行くハズだよな。
 
「カッとなって」って怒る時には「コイツには怒っても大丈夫だぞ、自分は危害を加えられないぞ」って冷静な判断が頭のどこかにあるんだ。
つまり人間は「自分より弱い相手」にしか「怒り」を覚えない。
先生(私)はそこがズルいと思う。
 
さっきの司会を殴った俳優、先生(私)は殴ってはいけないと思う。
あれだって、司会が銃を構えていたら殴ったりしなかったはずだ。
俳優はどこか、ズルい、冷静な計算があって怒ったはずだ。
 
「言葉の暴力はよくて、肉体的な暴力はダメなんですか?」
なんて言われるけど「同じ舞台で争ってはダメ」なんだぞ。
少林寺拳法の技でも同じだろ?
相手の力の強いところでやり合ったら、それは力比べだ。ただ力が強い方が勝つ。
相手が弱く、自分が強くなる位置に持っていく。
例えば、さっきの場合だと、俳優は「司会の言葉を撤回するまでは賞を受け取らない」って言えば、司会とそれを選んだ運営側が一方的に責められることになる。
少林寺拳法の技法を、ただの「エイ、ヤー」だけに使っていてはなんの意味もない。
日常生活に活かして初めて意味が出てくる。
法話

イライラするのは?

「あの飴買って〜」
って駄々をこねる小さい子いるよね?
じゃぁ、同じことを大の大人が街中でしてたらどう思う?
カッコいいか?
 
先生(私)な、ちょっと前に病院の会計待ちが遅くって、イライラしたことがあってね。
そこでね(あれ?どうしてイライラしているんだろう?)って考えたんだ。
 
それはね「俺の思い通りにしてくれって」って勝手な思いなんだ。
 
病院の人はね、ちゃんと手順を踏んでお金の計算をしているハズなんだ。
それをね
「ヤダヤダ、俺の順番を早くしてくれないとやだ〜」
自分の思い通りにならないことを自分の思い通りにしたいからイライラしたんだ。
これって、さっきの駄々をこねる子どもと同じだよね?
カッコいいか?
 
世の中、何ひとつ自分の思うようになんかならない。
そりゃそうだよなぁ、世の中、自分のためにあるわけじゃないもん。
 
学校で、職場で、街中でイライラして怒鳴っている人、あれぜ〜んぶ「飴買って〜」って泣いて駄々をこねる子どもと中身は同じ!
みっともないよなぁ。
あんな風ににはなりたくないよな。
法話

人生における成功ってなんですか?

「先生、人生における成功ってなんですか?」
先日、中学生のH拳士が尋ねてきた。

曰く
「今、成功について作文を書いている」
「僕は将来国語の教師になりたいと思っていて、教師になれたら成功だと思っている」
「だけど、友達には『そんなのは成功じゃない』って言う人もいる」

うん、Hはなぜ国語の教師になりたいと思う?
(一人でも多く「国語」が楽しいと思って欲しいから)
なら、それがHにとっての「成功」だよな。

人によっては「お金持ちになること」が成功だと思う人もいる。
それはその人にとっての「成功」でいい。
「目的」を達成できたら、それが「成功」なんだ。
だから、人によって「成功」とは違うものだ。

ただな、いいか?「目的」と「目標」を間違えるなよ。

例えば、国語の教師になりたいと「目標の高校」を受験して、失敗したとする。
これで「俺(私)はだめだ」なんて思ってしまうことがある。

あくまで「目標の高校」への進学は「教師になるための手段」の一つだよな。
ひとつの「手段」がダメなら、別の手段で「目的達成」を目指せばいい。方法はいくつでもあるはずだ。

人はたやすく「目的」と「目標(手段)」を取り違える。
だから、常に自分の心の中に「目的」を意識し続けなければならないんだよ。

成功と嫉妬

他人に任せるな

いいか?自分で考えて、自分で決めるんだ!

先生がこう言ったから、親がこうしろって言ったから、世間がこうだから。
それじゃダメだ。

大人だって間違えるんだ。先生(私)なんて間違いだらけだ。
だから、自分の頭で考えろ。
自分の命だ、自分で判断するんだ。他人に任せるな。

法話

311によせて

今日がなんの日か知っているか?
(東北地震があった日)

そうだね、あれから11年が経った。
ここにいるほとんどの人はあの後に生まれた人だね。
先生は昨日のことのように覚えている。

大きな、大きな地震があった。
私はね、せめて君たちのような子どもが犠牲にならないように祈った。
でもね、実際はたくさんの子どもたちが命を落とした。

ところでA太君、この週末は何をするつもり?
(おばあちゃんの家に行く)
そうだね、亡くなったあの子たちも「明日は何をしよう」って思っていたんだ。
でもね、「明日」は来なかった。
なかには春に小学生になる子、中学生になる子だっていたはずだ。

大川小学校って知っているか?
地震直後に校庭にみんなで避難したんだ。
そこで何人かの子どもたちは大人に「津波が来るから高台に逃げよう」って言ったそうだ、だけど大人たちは判断を誤ってそのまま校庭に残り、子どもたちと一緒に津波に流されてしまった。

大人だって間違えるんだよ。
私だって間違いだらけだ。
だから自分の命を守るため、しっかりした判断力身につけてください。
力愛不ニと私はよく言う。この力は判断力でもある。
だから、しっかり学校の勉強もして、たくさんの人に会って、たくさんの経験をして判断力を磨いてください。

いいか?坊主のお経なんかじゃ亡くなった人は慰められない。
生きている私たちが亡くなった人のために唯一できることは、今を一所懸命に生きることだけだ。
泣いても、笑っても、怒ってもいい。
だけど、あの子たちが望んでも生きることができなかった今日を一所懸命に生きよう。

私たち金剛禅は死んだ人のために祈ることはしません。
だけど、一年に一度だけ、今日はみんなで祈ってください。

合掌、黙祷

本尊

なにを目指しているのか

先生はね、みんなに少林寺拳法が上手い人になって欲しい、ケンカの強い人になって欲しいなんて思って指導していないぞ。

先生はね、みんなに「面白おかしく生きて欲しい」って思っている。

これね、簡単じゃないぞ。

まずは仕事がちゃんとできて、お給料をちゃんともらえないといけない。
「明日のご飯も食べられるか分からない」、では心配だらけだよな。
そんなことも気にせずに「今が楽しければいい」では、これはただのアホウだ。
「アリとキリギリス」の寓話にあるキリギリスよりも哀れだ。
だから、いつも「学校の勉強もちゃんとしろよ」「仕事が優先だよ」って言っているんだよ。

次に人間関係だ。
「人が悩む原因のほとんどは人間関係にある」と言ったのは心理学者のアドラー先生だ。
人間ってね、誰かと一緒にいないと生きていけない、だけど人と一緒にいることで悩むんだ。矛盾しているよね。
良好な人間関係を作れる様な生き方をしないとね。

そして、終わってしまった過去を思い出してくよくよしないこと。
どうなるか分からない将来を思い悩んでハラハラしないこと。
今、この時間を楽しみ、一所懸命に生きること。

これ本当に難しい。
先生って呼ばれている私だってできない。
だから、一生修行なんだよ。
金剛禅の主行たる少林寺拳法の修練を通して、みんなでずっと修行していこう。法話風景