道院長のつぶやき | 四日市富田道院

道院長のつぶやき
Shorinji Kempo

◇このコンテンツは少林寺拳法グループ関連団体についてのコンテンツです

命の尊さ ~いただきますの意味は?~

日本人は食事をする前に「いただきます」って言うよね?

あれは何に対して言うの?

(たべもの!)

おぉ、すごいね!

そうだね、今からいただく食材、「いのち」に対して「いただきます」って言うんだね。

私たちの食べるものは全部、他の「いのち」なんだよね。お魚にしても、お肉にしても。

私たちは他の「いのち」をいただかないと生きていけないんだ。

この身体(からだ)は日々食べるもの、「他のいのち」でできているんだ。

つまりね、身体は「他のいのち」から預かっている、借りているだけのものなんだよ。

だから自分の身体だからと言って粗末に扱ってはだめだよね、とうぜん他の人の身体もだ。

道院長インタビュー

いつかこの身体も返さなくてはいけない。

だからそれまで大事に扱うんだ。

命の尊さとは 盲亀浮木のごとし

君たちは誰から産まれてきた?

(お母さん!)

じゃぁ、そのお母さんは?そのまた、そのまた、そのまたお母さんは?

いいかい、数億年前にこの地球上にたまたま産まれた生物、細菌のようなものだったらしいが、その最初の生物から今の私たちまでずっと命は一本の糸のように繋がってきているんだ。

途中、どこかでその命が切れていたら今の私たちはここにいない。

当然のように思っているかもしれないけど、今、生きているのはとてつもない偶然、奇跡なんだよ。

だから、命とは自分のものも、他の人のものも大事なんだ。

亀

これをお釈迦様はこんな風にたとえているんだ。

命を得るということは、海中から百年に一度しか浮かび上がってこない盲目の亀が、海面に首を出した時、流れただよっている浮木のひとつしかない穴に首がちょうどはいるというくらい、奇跡的なこと。

修行の目的とは? ~開祖忌法要 法話~

少林寺拳法はたった一人の人、開祖宗道臣先生の想いから出発している。

その想いとは戦争体験にある。

「こんな悲惨な想いはもうまっぴらごめんだ!

自分はもちろん、子にも、孫にも、世界中の誰にも二度とさせたくはない!」

開祖忌法話

開祖が1980年5月12日に遷化されて、今年で45年、今でも世界中では戦争が続いている。

そして戦争ではいつだって弱いものが犠牲になる。

そんなことは「まっぴらごめん」だ。

開祖は亡くなる直前「原点に帰れ!」と幾度となく話されている。

その「原点」とはこの開祖の想いなんだ。

難しいことは言わない、まずは自分自身を大事にすること、そして、それと同じだけ相手を大事にすること。

今日、ここから始めて欲しい。

私たちが少林寺拳を修行をする目的を忘れないでいてください。

みんなに助けられて

大人拳士についてきた小さな子どもたちを他の保護者さんたちが修練中面倒をみてくれています。

四日市富田道院はこんな素敵な人たちに助けられて運営されています。

社会に役立つ人に

四日市富田道院はね、社会に出て行くための準備をする場所なんだ。

だからね、先生は君たちを叱ることがある。

「あいつなんもできない」って陰口叩かれるのと、面と向かって「ここができていないから直しなさい」と言われるの、どっちがいい?

「叱られるのが嫌だ」というなら、もう私は何も言わない。

その代わり、恥ずかしい思いをするのは自分自身だぞ。私はなんにも恥ずかしくないし、困らない。

君たちは私なんかより、ずっとずっと立派な人間になれるのだから。

だから、叱られのを避けないようにしなさい。

人は見た目が大事

人はね、見た目で判断するからね。

別にいい服を着ろなんて言わない。

背筋を伸ばしてしゃんとするんだ。

どれだけいい服を着てても姿勢がだらしない人は良く見られない。

みすぼらしい服を着てても、姿勢がキレイで所作が美しい人は一目置かれる。

達磨像の下に

普段の修練時に達磨像は古代文字が書かれている台に置いています。(儀式行事の際は祭壇に置かれます)

これは道院長が四日市富田道院を「こんな場所にしたい」と古代文字書家の小川戯光さんにお願いして書いてもらったものです。

これは高杯に盛ったごはん、お供えものを挟んで2人の人が食事をしている光景を文字にしたものだそうです。

現代語では故郷(ふるさと)の「郷」の原型となります。

転じて四日市富田道院を人が集う「コミュニティ」にしたいという道院長の願いがこもっています。

郷(さと)の元の古代文字から、食事を囲んでいる人々の賑やかな声が聞こえてきそうな気がしてきませんか?

四日市富田道院は拳技を中心として、いつも賑やかな声が飛び交っています。

「鍛える」とは

私の母校では、溶接、旋盤、鋳鉄などの実習があり、そのうちのひとつに「鍛造」というものがありました。


鍛造とは真っ赤になるまで熱した鉄を叩いて形を整え、水などで冷やして硬さをあげていく作業のことです。私の場合、実習期間がちょうど夏季にあたり、汗だくになりながら熱い鉄にハンマーを振り下ろしていました。はい、16歳の夏でした。


鉄は鍛えていけばいくほどドンドンと硬くなっていきます。ところが、ある程度の硬さになると「ポキッ」と音を立てて簡単に折れてしまいます。
これは硬さをあげることにより鉄が本来持っていた柔軟性を失ってしまうからです。


硬いから「強い鉄」というわけではなく、むしろ、硬いからこそ「壊れやすい鉄」なのです。
これは人も同じようなもので「こうでなければならない」というものを持っている人ほど、想定外の衝撃を受けた際に崩れやすいものです。


当然、確固たる自己(自己確立)を持たなくてはなりませんが、同時に自分とは違う価値観を許容できる柔軟性(自他共楽)を併せ持たないと実際の「強さ」を得ることはできません。


少林寺拳法を主行とした拳禅一如の金剛禅修行法は、剛毅さとしなやかさを同時に身につけられる(剛柔一体)もので、私たち指導者はそれを体得して欲しいと思い指導をしています。


7世紀に建立されてから1300年以上自然災害に耐え続け、世界最古の木造建築物である「法隆寺」には真ん中を貫く一本の心柱があります。この心柱は基礎に固定されておらず、風や地震などの衝撃に対しユラユラと揺れるようになっているそうです。
私たちも法隆寺のように一本強く貫く芯を持って、かつ、しなやかに生きていきたいものです。

気がついたら…

うちの道院長、気がついたら笑ってます。

怒っているところは、滅多に見たことがありません。

本人は「和顔愛語やぁ」なんて言ってますが、単に道院が楽しいだけのような気がします。

小教区研修会の講師を務めました

年末押し迫った寒い日でしたが、本日、当道院の道院長が四日市小教区研修会の講師を務めました。

四日市小教区研修会

いろんな話題(つまり雑談)を取り混ぜながら世界情勢を含めてと宗教の意義について楽しそうに話していました。