道院長のつぶやき | 四日市富田道院 | Page 5

道院長のつぶやき
Shorinji Kempo

◇このコンテンツは少林寺拳法グループ関連団体についてのコンテンツです

桃太郎になろう!

修行の目的は何だ?

何事も「目的」があるはずだよね。
その「目的」を達成するためにあるのが「手段」だ。
じゃぁ、私たちが少林寺拳法を修行する目的は何だ?

開祖はよく「お前たちは昭和の桃太郎になれ」とおっしゃっていたらしい。
今で言うと「令和の桃太郎」だね。
桃太郎の物語はみんな知っているよね?
じゃぁ、開祖が言う「桃太郎になれ」ってどういうことだ?

それはね
・鬼の悪行に憤る「正義感」
・独りでも鬼退治に出た「勇気」と「行動力」
・謝る鬼を許す「慈悲心(優しさ)」

これを持てと開祖はおっしゃるわけだ。
これを持つために私たちは少林寺拳法を修行しているわけだ。

それを、やれ「俺は演武が上手い」だの「乱取りが強い」だの。
そんな自慢する人は少なくとも四日市富田道院には要らない。

そんな人を作るために指導はしていない。修練風景

人生は熱湯風呂だ〜覚悟を決めろ〜

覚悟を決めるってあるよね、あれなんだ?
これ両方とも「覚る(さとる)」「悟る(さとる)」だよね。
何を「さとる」んだ?

これはね「世の中は全部苦しみだ」(一切皆苦)と、さとるってことなんだ。
どういうことかというとね。

ここにお風呂があるとする。熱湯風呂だψ(`∇´)ψ
知らずに入ったらどうなる?

アッツゥゥ ε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘

ってなるよな。
でもさ、入る前から「このお風呂は熱いぞ」って言われて入れば、我慢できるもんだよな。
そんなもんだ。

世の中、自分の思うようになんかならない。当たり前だよな、そんなに都合よくできていない。それを勘違いして都合よく考えるから嫌なことが多く感じるだけ。
もともと思うようになんかならないって思って生きてごらんよ、毎日楽しいぞ。
今日はこんな面白いことがあった、こんな楽しい話しができた。

人生は熱湯風呂みたいなもんだ。
熱いと覚悟していれば、結構楽しめるもんだ。

一切皆苦

面白おかしく生きよう

質問 先生がよく言う「面白おかしく生きる」コツってなんですか?

喜劇王って言われるチャールズ・チャップリンの言葉に「人生はクローズショットで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」ってのがあるんだよ。
生きていれば辛いこと、苦しいことがいっぱいある。でもねそれを一歩引いて遠目で眺めて「くだらないw」って笑えるといいよね。

私だって辛いことがいっぱいある。そのことだけに集中すると、そりゃ苦しいよね。
それを「こんなことがあってさ(笑)」って友達に笑い話として話すんだよ、そうすると友達も「お前バカだなぁ(笑)」って笑ってくれる。その笑っている友達を見て(あぁ、やっぱり悩むほどのことがないくだらない事なんだな)って自分で思えるようになるんだよ。

辛いこと、苦しいことを一緒に笑い飛ばしてくれる友達をひとりでも持つこと。
これが「人生を面白おかしく生きる」コツ。
(道院長誕生日会より)道院長誕生日会

少林寺拳法の拳士が守るべく約束

少林寺拳法の拳士が守るべく約束ってあるよね。
みんな全部言える?

「却下省己(履き物を揃える)、合掌礼(挨拶)、作務(掃除)、正しい服装、正しい言葉使い、正しい態度」

これね、何もここ(道院)だけのことじゃないんだよ。
これはね、社会に出てから大事な事なんだ。
これができない大人はダメな大人なんだ。

例えば、さっきT君が出欠簿を先生に片手で渡していて注意されたよな?
目上の人には丁寧に両手で渡しなさいって。

「えーっ、でも学校じゃぁそんなの教えてくれないよ~」

そりゃそうだ、こんなのは学校じゃぁ教えてくれない。
だから、ここ(道院)で覚えて行くんだ。

ここ(四日市富田道院)はどれだけ間違えてもいい場所だ。
間違えて、間違えて、それで覚えて大人になって行きなさい。

修練風景

人を教えるということ

上級者が下級者を指導します。

下の者を教えることで、自分の技術はもちろん、生きる姿勢を見直すことが求められます。
そこに学びがあります。

金曜日は中学生有段者が小学生を教えていました。
道院長も含め私たちは皆が等しく修行者です。

修練風景

なんのために少林寺拳法を修行するの?

「じゃぁ先生は何のために少林寺拳法をやっているんですか?」(中学生拳士)
まずは、開祖宗道臣先生(以下「開祖」)が何を目的として金剛禅総本山少林寺を創始されたか?
そこが全ての原点だよな。

開祖は敗戦間もない日本を見て「人づくりによる国づくり」を目的として創始されたんだよな。
「人、人、人、全ては人の質にある、ですか?」
そうだね、全てが人の質にあるならば、より良い国を作るには1人でも多く勇気と慈悲心と行動力のある人を育てなければならない。

だから、私たちは自分達の「人としての質」を上げることを「目的」として金剛禅を修行するんだよな。
決して腕力の強い人、「エイ、ヤァ、どうだ俺は強いだろ?」こんな人になるためにやっているんじゃないよな。
あくまで少林寺拳法はそのための「行」、つまり「手段」のひとつなんだ。

修練風景

なんのために少林寺拳法を修行するの?

「先生、護身術として、この技はやりすぎだと思うんですが?」(中学生拳士)
おぉ、少林寺拳法が護身術なら確かにやりすぎだな。

でもな、私たちは少林寺拳法を護身術としてやっているんじゃないぞ。
ここは金剛禅総本山少林寺、言ってしまえばみんな修行僧だ。
少林寺拳法はあくまで「行」のひとつとしてやっているんだ。

拳禅一如って言葉があるよな。
拳は肉体を、禅はこころを意味するんだよな。
一方、拳=拳技の修行は禅=坐禅と同じだって意味もある。
拳技のことを「動禅」って言い方もある。

じゃぁな、何事も「目的」と「目標」と「手段」があるはずだ。
私たちは何を目的として修行しているんだ?
〜(続く)〜

修練風景

「怒り」の感情ってズルくない?

アメリカのアカデミー賞の舞台で俳優が司会を殴った事件があったね。
司会に自分の奥さんを茶化されたからって。
あれ、みんなはどう思う?
 
喜怒哀楽って人の感情を表す言葉がある。
これのね、「怒」、怒りって感情はね先生(私)はおかしいと思うんだ。
例えば「カッとなって暴力を振るってしまいました」ってニュースでよく聞くよね?
でもさ、「カッとなって」反社会勢力の人に殴りかかった人って聞かないよね。
腹が立ったからって、銃を構えた人に素手でかかって行く人いるか?
おかしいよな?怒りで我を忘れるなら相手構わず向かって行くハズだよな。
 
「カッとなって」って怒る時には「コイツには怒っても大丈夫だぞ、自分は危害を加えられないぞ」って冷静な判断が頭のどこかにあるんだ。
つまり人間は「自分より弱い相手」にしか「怒り」を覚えない。
先生(私)はそこがズルいと思う。
 
さっきの司会を殴った俳優、先生(私)は殴ってはいけないと思う。
あれだって、司会が銃を構えていたら殴ったりしなかったはずだ。
俳優はどこか、ズルい、冷静な計算があって怒ったはずだ。
 
「言葉の暴力はよくて、肉体的な暴力はダメなんですか?」
なんて言われるけど「同じ舞台で争ってはダメ」なんだぞ。
少林寺拳法の技でも同じだろ?
相手の力の強いところでやり合ったら、それは力比べだ。ただ力が強い方が勝つ。
相手が弱く、自分が強くなる位置に持っていく。
例えば、さっきの場合だと、俳優は「司会の言葉を撤回するまでは賞を受け取らない」って言えば、司会とそれを選んだ運営側が一方的に責められることになる。
少林寺拳法の技法を、ただの「エイ、ヤー」だけに使っていてはなんの意味もない。
日常生活に活かして初めて意味が出てくる。
法話

イライラするのは?

「あの飴買って〜」
って駄々をこねる小さい子いるよね?
じゃぁ、同じことを大の大人が街中でしてたらどう思う?
カッコいいか?
 
先生(私)な、ちょっと前に病院の会計待ちが遅くって、イライラしたことがあってね。
そこでね(あれ?どうしてイライラしているんだろう?)って考えたんだ。
 
それはね「俺の思い通りにしてくれって」って勝手な思いなんだ。
 
病院の人はね、ちゃんと手順を踏んでお金の計算をしているハズなんだ。
それをね
「ヤダヤダ、俺の順番を早くしてくれないとやだ〜」
自分の思い通りにならないことを自分の思い通りにしたいからイライラしたんだ。
これって、さっきの駄々をこねる子どもと同じだよね?
カッコいいか?
 
世の中、何ひとつ自分の思うようになんかならない。
そりゃそうだよなぁ、世の中、自分のためにあるわけじゃないもん。
 
学校で、職場で、街中でイライラして怒鳴っている人、あれぜ〜んぶ「飴買って〜」って泣いて駄々をこねる子どもと中身は同じ!
みっともないよなぁ。
あんな風ににはなりたくないよな。
法話

成長を喜ぶ

高校生が白帯さんを教える。

彼が小学生の頃は落ち着きがなく、注意深く指導したものですが、高校生となった今は誰よりも頼りになる良き兄貴分になりました。

そんな彼を頼もしく、嬉しく観ているのが道院長です。

私たちは人の成長を何よりも嬉しく思います。

少年部指導