先日、(一社)ShorinjiKempoUnityで実施された昇格考試で初段位に合格した拳士に允可状を授与しました。
有段者ということ自体は一般社会では何の意味も価値も持ちません。
むしろ一般社会の人から「さすが少林寺拳法の有段者だ」と言われるような立ち振る舞いをしなければなりません。
黒帯を取って(有段者になって)から初めて自分の修行が始まるのです。
まずは、その努力と結果におめでとう。
◇このコンテンツは少林寺拳法グループ関連団体についてのコンテンツです
先日、(一社)ShorinjiKempoUnityで実施された昇格考試で初段位に合格した拳士に允可状を授与しました。
有段者ということ自体は一般社会では何の意味も価値も持ちません。
むしろ一般社会の人から「さすが少林寺拳法の有段者だ」と言われるような立ち振る舞いをしなければなりません。
黒帯を取って(有段者になって)から初めて自分の修行が始まるのです。
まずは、その努力と結果におめでとう。
道院だよりを発行しました。
道院長が何を想い、どういう方針で道院を運営しているのか分かってもらうために不定期(月1を目指したい)で発行しています。
私たちは人づくりをしています。
物騒な世の中、自分の身と大切な人くらい自分で護りたいと思いませんか?
いきなり胸を掴まれたらあなたはどうしますか?
今日はO拳士が初めての主座。
最初から上手にできる人は誰もいません。
まずはやってみることから始まります。
高校生、体調が悪くて少林寺拳法の修練はできなくても顔を出しにきます。
体調不良で修練ができない副道院長と学校の悩み事を話し合っていました。
この後、彼は修練あがりの同年代と車座になって談笑して、スッキリした笑顔で帰って行きました。
あくまで少林寺拳法は主行であって、できなくてもいいんです。
道院に顔を出して、生きるエネルギーを充填して行けばいい。
私たちは人づくりをしています。
嫌なことから「逃げ」てはいけない。
嫌なことから逃げると、いつまで経っても追いかけてくるぞ。
独りで「嫌なこと」に立ち向かえなんて言わん。
誰かの助けを使え。
誰かに「助けて」って言える様になれ。
熊だって背中を向けて逃げたら追いかけてくるぞ。
どうせ逃げるなら上手に逃げろ(笑)
Q.指導されているときに拳士から「先生、これはこうじゃないですか?」なんて突っ込みを言われていましたが、あれも意識されているんですか?
A.道院長って何もしなければ、勝手に祭り上げられて、拳士との間に開きが出てしまうんですね。
そうなってくると拳士の状況が分からなくなってくる。そうすると指導もうまくいかない。
なるべく拳士との距離を近く、近くにもっていくことによって「この子は今日何に悩んでいるんだろうか?」とか拳士の状況を把握することができる。
だから、自分から拳士の近く、近くへ寄っていくようにしています。
その結果としての「ツッコミ」じゃないですかね(笑)
Q.道院長が自ら技をかけられていましたが、意味があってやられていますか?
A.まず、私自身が技を見せて「こうだ!」って教えるだけの技術がないというのがひとつ。
技をかけられることによって相手を誘導して教えることができるからですね。
もう一つが少林寺拳法というのが「組手主体」、これは道院長と拳士の間でも一緒だと思うんですよ。
「俺がお前を投げるのは気持ちいいが、お前に俺が投げられるのはかっこ悪いから嫌だ」
では、本来の少林寺拳法ではないですよね。
「私が技をかけたら、次はあなたがかけてね」
道院長と拳士であっても「お互い対等な修行者ですよ」という気持ちでやっています。
中学生なら中学生、小学生なら小学生、できるだけ目線を合わせて指導するように心がけています。
Q.法話は難しい話題から身近な話題までされていますが、何か工夫をされていますか?
A.興味を持ってもらわないと聴いてもらえないですよね。
四日市富田道院は法話を聴くのが大好きな子が多いんですよね。
「あぁ、今日も先生オモロイこと言ったな」
って思ってもらわないと、まずはコッチを向いてもらうことが大事。
私、子どものころに某スポーツを習っていたんですけど、その時のコーチがいろいろお話しをするんですね、でも、子どもって面白くないから話しを聴かない。そうするとコーチが怒るわけですよ
「人の話しを聴くときは相手の目を見るもんだ!」って
こっちは(そうかそうか、相手の目を見ればいいんだ!そうしたら怒られない)って思うわけです。
じゃぁ、次からどうするか?
コーチの目を見て、頭の中は別のことを考えるわけですよ。(今日のご飯なにかなぁ)なんて。
話しの内容なんて何にも入ってきていない。それじゃ話す意味がない。
ますは聴き手を引き込んで、そこからいろんな話しをしていく。これが一番大事だと思っています。
Q.何か目的をもって法話をしてるんですか?
A.法話は必要に迫られて始めただけなんです。
突いたり、蹴ったりだけをしているだけでは子どもたちの悩みとか、大人の悩みとかに応えることができないんですよね。
「先生、今日、学校で僕いじめられたんです」
「そうか、それなら道院で突いたり、蹴ったりして気分転換しろ」
ではないですよね。
そこから「生きるってなんだろう?」「人生ってなんだろう?」を伝えるには言葉で伝えていかなくてはならない。そんなところから法話を始めただけなんです。
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