法話 | 四日市富田道院 | Page 7

法話
Shorinji Kempo

◇このコンテンツは少林寺拳法グループ関連団体についてのコンテンツです

願い事の叶え方教えます

お正月に今年の目標を立てた人は?
案外少ないな。
では、初詣に行ってお願い事をしてきた人は?
たくさんいるね。

じゃ、私がその願い事を叶えてあげよう!
簡単だよ(笑)

お釈迦さんは願い事を叶える方法をこう言っている。
「願行具足」

いつも言っているけど漢字は表意文字(意味を表す文字)だ。

願は願い
行は行い
具は具(そな)わる
足は足りる

願いと行動が十分に具(そな)わって足りれば願いが叶うってこと。

「痩せたいなぁ」って言ってて、食べて寝てるだけなら痩せないよな?

だから、ほんの少しずつでいいから、目標に向かって行動することだ。

 

法話

どんな一年でしたか?

稽古納では一年間お世話なった修練場所の大掃除を行います。
 
〜〜〜
今年一年間、みんなはどんな年だった?
私はいい事もあれば、悪い事もあった。
きっとみんなも一緒だよね。
でもね、いい事も悪い事も全部ひっくるめて一年なんだ。
生きていればそれで十分。
来年も一緒に楽しもう。
〜〜〜
 
みなさま、今年もありがとうございました。
良いお年をお迎えください。
大掃除

一流の条件とは?

私は仕事で、その世界のトップグラスの人と会うことがある。
野球で言えば相手はプロ野球、私は草野球くらいの差がある(^^;
でもね、そんな人たちは概ね気さくなんだ。
こんな私が相手でも丁寧に挨拶してくれる。

ずっと不思議でね。
なぜだと思う?
(先生が以前に言っていた一期一会)
おお、すごいな。

一流って言われている人たちは「貪欲」なんだ。
相手が誰であろうと何かをその人から得ようとしている。
「この人はどんな人で、どんな経験をして来て、どんな知識を持っているのだろうか?」
ってね。

そのために自分の周りに他人との壁を作らない。
壁を作らないためにはどうしたらいいか分かるか?
笑うんだよ。
ニコッと笑って挨拶をする。

私がずっと怖い顔をしているようなら、今日だってこうやって遠方から先生が遊びに来てくれて指導してくれることはない。

いいか?
いつも楽しそうにニコニコとしているんだよ。
そうすれば、人が集まって来ていろんなことを分けてくれる。

修練風景

「いのち」ってなんだ? 〜その3〜

あぁ、あんな風な人になりたいな。
って憧れを持って、近づく努力をすることはとてもいい事だ。

でもね、憧れの人の様になれなくてもガッカリすることはない、するなよ。
それは、自分は自分以外のものには決してなれないからだ。

ひとりひとりがそれぞれかけがえのない、たった一つの人生を生きている。
君の人生を誰かが、たとえ親であっても、代わりに生きることはできない。
私の人生を君が代わりに生きることもできない。

数億年かけて繋いできた、たった一つしかない自分の「いのち」だ。

あなたはただあなたであるだけで素晴らしい存在なんだ!
他の誰かになる必要は絶対にない!

繋がれてきた、たった一つの「いのち」だ、精一杯生きよう。

鎮魂行

「いのち」ってなんだ?〜その2〜

タイムパラドックスって知ってるか?
(ドラえもん?)
おぉ、惜しいな(笑)

例えば、ある日、ずんぐりとしたネコ型ロボットに「恐竜が見たいよ〜」ってお願いしてタイムマシンで恐竜時代に行ってみる。
恐竜がのしのしと歩き回るジャングルで君は小さなネズミを踏み潰してしまう。

普段ならどうってことない話しだ。
しかし、そのネズミのような哺乳類が君の遠いご先祖さまだったら、君はどうなる?
君は生まれてこられなくなる。

いいかい?
私たちは遥か数億年前、太古の海にぷかぷかと浮かぶ小さな単細胞の生命から始まり、今の自分に至るまで絶え間ない「いのちのリレー」でここに私たちは存在する。
どこかひとつでも「いのちのリレー」が途切れるたら私たちは今、ここにいないんだ。

遥か数億年、途方もない年月の結果として今の「いのち」がある
そう思うと、ただここに生きているだけで、ただそれだけでとても奇跡的な存在だとは思わないか?

法話

(続く)

「いのち」ってなんだ? ~その1~

「いのち」ってなんだ?
 
私は先日、職場で脳死移植の講演会を受けた。
私が脳死になれば、私の心臓だって誰か困っている人にあげられる。
でも、それは私が「いのち」をあげたわけではない。
そこに「私」という存在はもうないからね。
 
「いのち」は誰しもがひとつしか持っていないものなんだ。
スーパーマ◯オのように3つとかないんだ(笑)
 
ひとつしかないから自分の「いのち」は大事なもの。
ひとつしかないから相手の「いのち」は大事なもの。
だから、捨ててもいけないし、奪ってもいけない
祭壇

そこはゴールではなくスタート地点だ

私が以前に観た映画にこんなセリフがあった
「大いなる力には大いなる責任が伴う」

…なるほどなって思ったよ。

少林寺拳法の黒帯を締める(有段者になる)ってことは、その力に即した責任があるということだ。
多くの人が初段取得を目標にして、初段を取ったら離れて行く者も多い。しかし、それは違う。
初段を取ってから初めて自分の修行が始まる。

ここはゴールではなく、ここからようやくスタートなんだ。

たった今、彼はその大きな責任を負ってスタート地点に立ったところだ。
その黒帯の重さを自覚してこれからも修行して行って欲しい。

今日は初段允可状授与式。

初段允可上授与

一期一会

袖ふれあうも他生の縁という。
すれ違って袖が少しふれあう様な相手でも他生からの縁だということだ。
 
でも、袖がふれあってすれ違うだけでサヨナラでは寂しいもんだ。
こうやって、何かの縁があってみんなと会っている。
なら、どうせなら、自ら縁を繋いで価値あるつながりにしよう。
 
せっかく出会った相手だ、ほんの少しの時間でも相手から何かを分けてもらおう。
って、財布は取るなよ(笑)
相手のいいところ、見習うべきところ、相手の経験、知識を分けてもらおう。
 
お金は使えばなくなる。
でも、自分の身体に染み込ませたものは無くならないし、誰にも盗られない。
 
縁あって私と会ったんだ、なら有意義なものにして欲しい。
「あの先生、面白かったなぁ」
っていつか思い返してもらうだけでも私はいいけどね(笑)
 
いい出会いはもちろん、悪い出会いからも何かを学び取って行ってください。
一期一会

君は未来の自分のために、今、どんな種を蒔く?

お釈迦さまが言った言葉のひとつに「自因自果」というのがある。
 
ここで「因」とは「種」、「果」とは「果物」
自分が蒔いた種から実った果実を自分が食べるということ。
 
バーっと種を蒔いて、あとは面倒臭いからほったらかしで家で寝てよ〜っと
鳥が来て突いても、日照りで干上がっても面倒くさい、面倒くさい。
こんな事で、まずもって果物がなるか?(笑)
小さな、カスカスの果物を食べなくてはならなくも、それはサボった自分の責任だ。
 
ちゃんと種を蒔いて、水と肥料をあげて、手入れをしたら、甘くて美味しい果物ができるはずだ。
そりゃ、たいへんな事だよ。
 
特にまだ未成年の君たち、大人になるまでにやった事がその後の自分を作る。
例えば先生は学生時代長距離の選手だった。50歳になった今でも身体は長距離ランナーのそれだ。
身体に限った事ではない、成年するまでに培ったものがゆくゆくの自分を作る。
だから、たいへんだけど一所懸命自分を鍛えなさい。
 
君は未来の自分のために、今、どんな種を蒔く?
自因自果

自分が大切だから

私がこの四日市富田道院で学んだことは「自分を大切にすること」。
私という人間は他に誰もいない、唯一の存在なのです

私は道院長によく「頑張ったからシュークリームを食べな」って言ってもらいました。
頑張った自分を認めてあげてご褒美をあげる。
これはとても大切なこと。
だけど、いつもご褒美だけだとどうなる?
(太る〜)
そうだね、いつもご褒美ばかりだと良くないよね。
自分の夢に向かって、なりたい自分を目指して、時には自分に厳しく背中を押すことも大切。

私という存在が大切なら、同じだけあなたという存在も大切だって気がつく。

私はみんなの成長していく姿を見ることがとても嬉しい。
これからも、自分を大切に、時にご褒美をあげて、時に厳しく背中を押して、成長していってください。

助教による法話